「自民党の変質」 福島瑞穂との対談

11月3日付「生命を大事にする運動」に続きになります。

福島 社会のなかで、支援が必要な人を切り捨てていくという構造があります。それと弱くて少数である人たちは、まったく省みられることがない社会になっているではないですか。そういった弱いと思われる人間をバッシングする構造は、国会のなかの政治でも少し似ています。  
 私たち社民党がそうだから感じるのかもしれませんけれど、国会のなかで憲法九条をかえたくない勢力、あるいは有事立法に反対する勢力をなんとしても排除したいというハッキリとした意志を、露骨に感じるのです。 

 以前は自民党だって保守リベラルと呼ばれた一面もあったはずなのに、そこの部分が急激に小さくなってしまった。
 自民党は、国家主義的なところと保守リベラル的なところを両方持っている政党でした。だけど今では国家主義的なところしか見えてこないです。だから政党のなかの許容範囲もどんどん小さくなっています。 
 それからメディアの姿勢も、強いものにむかっていくのではなく、弱いものをたたく側にまわってしまっている。これはおかしいと思います。 

鎌田 民主主義を語っている以上、あまりひどいことをしてはいけないという、心のなかのブレーキが昔は強かったのです。
 たとえば1960年代初めのアメリカの公民権運動は、ブレーキをつくった運動だと思います。現実に差別は実在するけれど、それがない社会を目指さなくてはいけないとみんなが考えるようになった。運動とジャーナリズムの理想的な関係です。 

 日本国憲法の前文には「この崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」という一文があります。そういう憲法に書かれている「崇高な理想」を、欺瞞だから引きずり降ろそうというマスコミが増えてきましたね。マスコミは権力に立ちむかうのではなく、悪乗りしすぎのおもしろおかしい報道ばかりしていて、ついに行き着くところに辿り着いてしまった。 
 石破防衛庁長官(当時)は報道陣に向けて、イラク国内での自衛隊の活動に関する報道の自粛要請を行いましたが、権力の側が報道の自粛を要請することは、それ自体が言論弾圧であって許されることではない。
 しかしそれを公然と言わせてしまい、さらに新聞協会や民放連は結束して猛然と抗議するわけでもなく、行儀よく取材するから情報をくださいとお上に頼み込んでいる始末です。
 「戦場」の現場で政府がかん口令を敷こうとすることと、報道の側が自分たちに一定のルールを課して取材を行うということは、別次元の問題です。それを日本のメディアは両方ごちゃ混ぜにしてしまった。

 イラクで自衛隊に不幸にも犠牲者が出てしまったら、マスコミは大々的に英雄としてあつかうでしょう。 
 しかし今の体制で、自衛隊が現地の民間人を「治安活動」の一環としての正当防衛で、殺してしまった時、果たして批判的に伝えることができるのか、はなはだ疑問です。なぜ報道機関として自分たちが存在するのかという、自分にたいする問いかけがなくなってしまいました。
『やさしさの共和国』花伝社、2006年9月

写真=福島瑞穂前社民党代表,多摩に暇人撮影, the Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0
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