原発ファシズムを超えて 『ほうしゃせん きらきら きらいだよ』

 私たちが若いときは、世の中がだんだん良くなると思っていましたし、実際、少しずつ良くなってきたこともありました。若いころは、もっと早く世の中が良くなると信じていましたね。遠い将来、というよりも、近い将来、世の中が変わると信じて生きてきました。 
 ところが、最近はなかなかそうはいかない。だんだんと悪くなっていくのではないかと、不安に思えてなりません。多分、みなさんもそういう実感を持っておられることでしょう。
 まして、この大阪は、いま、日本の一つの焦点になっていまして、橋下徹という男が登場して、「どうしてこんなことが平気でなされるのか」という事態になっています。 

 いま、ほとんどのひとたち、日本に住む八割以上のひとが、「原発は嫌だ、原発は怖い」「もう何とかしてくれ」。そういう気分になっていると思います。 
 これは、戦時中の厭戦気分といいましょうか、「ほんとうに戦争は嫌だ」という気分と共通していると思います。そういうときに、広島に原爆が落とされて甚大なダメージを受けたわけです。 
 残念ながら、日本政府は国体を護持するという考えに凝り固まっていましたから、広島への原子爆弾投下、長崎への投下を経て、ようやく観念して、敗戦を決意しました(「国体」とは国家の根本体制のことであるが、戦前における「国体護持」とは、「天皇制国家の核心である天皇の地位・権威・権能を保全すること」を意味する)。 

 それと同じように、いま、福島で原発が爆発して大きく被災したのに、それでもなおかつ、日本政府は原発を「やる」といっています。
 これはちょうど、敗戦前の、長崎に原爆が落ちる前の状況――もう一回、何か大惨事が起こらないと決断しないという愚かな選択に似ています。いま、そういう危機的な状況にあると、私は思っています。

写真=美浜原発と丹生大橋、撮影 hirorinmasa, クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンス

 民主主義というのは、国民の八割が反対していたら、もうそれは断念しなければならない、止めなければいけないということです。
 いま、原発に対しては「本当に反対」というひとたちと、「嫌だ」というひとたち、合わせて八割います。だとすれば、すぐに止めるべきです。 
 日本国憲法の前文には「主権が国民に存する」、それから、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と書かれています。つまり、恐怖からの脱出ですね。

 さらに、ご存じのように、憲法13条では、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」とあり、有名な25条は「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」と謳っています。 
 つまり、日本国憲法に照らし合わせても、現在のような被曝の恐怖の中にある、いつ原発がもう一度爆発するかわからない、そういう状況にあるということ自体が、憲法違反なんです。

 加えて、居住権という問題もあります。いま、福島のひとたちは、本当に居場所を失っています。故郷を失うということは、若いひとたちにはあまり実感がないかもしれません。しかし、年配者、歳を取ったひとたちにとって、自分の故郷から強引に引き離される、それも近くのひとたちから切り離されてどこかに移住させられるなんてことは、堪らないことなのです。 
 そこにある記憶とかコミュニケーション、そういったものすべてから強引に――自分の選択ではなくて――引き離されることは耐え難い。これは、居住権の甚だしい侵害です。

 まして、危ないところに原発が置かれている、自分たちが暮らしているすぐそばに原発が置かれている。それも「安全だから」ということで強引に設置された。これも人間の権利に対する重大な侵害です。

『ほうしゃせん きらきら きらいだよ』七つ森書館、2012年12月
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