ジャーナリズムのゆくえ-国益と民益

 「進歩的とか反動的とかいう規定は、ある人間が口でどういうことを唱えているかと いうことで決まるのではなくして、彼がその実践の上でどこまでその主張を貫いたか ということが大事なのである」
 丸山真男が、陸羯南(くがかつなん)について書いた文章の一節である。

陸かつ南 「理論と実践の統一」は、 世界的に戦後の知識人をとらえた強烈な理想だった。そのはるかな先駆者のひとりが、明治末期、49歳の若さで早世した陸羯南だった。「権勢を何とも思わぬ一点は、明治時代の新聞記者で(僕の知っているだけでは)絶倫だ」という、森銑三の輝かしい評価もある。
 独立不羈のジャーナリストとして、日本のジャーナリズムに巨大な足跡を刻んだ陸 羯南が、寒風吹きすさぶ、中央から冷遇されていた、本州最北端の一隅から生みだされたのは、わたしたち同郷人にとっての誇りである。
  ジャーナリズムは、右顧左眄(うこさべん)せず、おのれの信じる思想と視点とによって、権力を規制し、現実を裁断し、世界の変革に寄与する、との陸羯南の自己犠牲的な理想が、その後のジャーナリストに受け継がれたのは、まちがいはない。  

 「ペンは剣より強し」
 英国の政治家であり、小説家だったリットンの戯曲『リシリュー』にある名言である。
 しかし、湾岸戦争やイラク攻撃にたいする米国のマスコミ や、自衛隊出兵や対米従属の安全保障政策を「国益」として論じる日本の新聞や放送の変節ぶりをみるだけでも、「剣がペンより強し」の現実をつきつけられている。

 羯南の時代のように、投獄と発行停止によって言論が弾圧され、あるいは戦時中のように、 大本営発表に従属させざるをえなかった新聞記者たちの苦衷をおもえば、現在はまだまだ表現の自由の余地は残されているはずだが、すでに自主規制が新聞、テレビを覆い、生活意識ばかり強く、警世の想いのない「マスコミ人」がはびこっている。  

 わたしの新聞や放送への疑問は、「なぜそのニュースを取材し、報道するのか」、と いうものである。世論に迎合した報道ばかりが多く、個人の主体をかけたものがすくな い。ニュース価値の低俗化と無責任である。
 たとえば、つねに「政府高官」の発表記事が一面を飾り、たとえば、北朝鮮の拉致事件発覚のあと、被害者家族の報道が日夜くりかえされて、北朝鮮経済封鎖論に誘導されたり、たとえば、犯罪事件の加熱が、死刑にしろ、との世論を一気にたかめたり、報道が憎悪と 制裁の拡声器になっている。
 記者自身、自分の記事が歴史的にどう検証されるかに懼(おそ)れをいだかず、ただ組織の一員として、世論操作に奉仕させられがちである。
 なんらの定見なく、ただ世論に迎合し、売れ行きだけにあたまを悩ましているの は、ジャーナリズムの邪道であり、信じてもいないことを書くのは、文筆の退廃である。

 「独立的記者の頭上に在るものは唯だ道理のみ、唯だ其の信ずる所の道理のみ、唯だ国に対する公儀心のみ」
 と書いた羯南は、国家への忠誠ではなく、国民(市民)への奉仕を天職と考えていたのだった。
 ジャーナリズムとは、ヒューマニズムのことであり、国権を規制して人権を拡大し、ひとびとが生きやすい社会をつくるためのものである。とすれば、その最大の使命は、 あらゆる戦争に反対することである。
(鎌田慧講演、青森県近代文学館2004年8月)

写真=陸羯南、撮影年月日不明、Japanese book Katsunan Bunroku (羯南文録) 著作権保護期間満了
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