パレードの思想 3 (編集部)

10月24日付「パレードの思想 2」のつづきになります。

Hitlerjugend,_Appell_zur_Maifeier 21世紀のあたらしいうねりは、100年前とはあきらかにちがう特徴をもっている。どこの運動にも中心というものが存在しない。どの次元においても、中心は決定的にないのだ。リーダーや統率する集団がいない。アラブの春にせよ、ウォール街にせよ、それが中心地や基点にはなっていない。かつての民衆をみちびくレーニンのような革命の指導者もいなければ、世界の共産主義運動を統率したコミンテルンやコミンフォルムのような支配権力も存在しない。ましてやヒトラーや毛沢東を盲目的に崇拝し、市民への不当な弾圧の手先となったヒトラー・ユーゲントや紅衛兵のような集団ももちろん存在しない。

 参加者は誰もが自分の意思で、広場に集まり、街をパレードし、じぶんたちの声を合わせて呼びかける。それぞれが節目となって、どこまでも広がっていく可能性をもつグリッド・システムのようなものを、わたしたちは連想することができる。
 統一委員会といった中心はなく、それぞれが互いの活動を熟知し、連携しながらも、固有性や独自性も失うことなく、対等な立場で主体的に動いていく。まったく新しい形態の社会が蠢きはじめているのだ。それは各地の運動の内部においてだけでなく、世界じゅうで現出している動きでもある。それを「パレードの思想」と呼んでみたい。

 2011年以降の脱原発を主張する日本の運動のいくつかもまた、同じ特徴をもつ。
 「さようなら原発」には、たしかに呼びかけ人として鎌田慧、落合恵子、大江健三郎といった著名人が壇上で声を上げ、鼓舞する。だが参加者は、呼びかけ人を指導者などとは見ていない。呼びかけ人の言葉は、自らの立ち位置を確認し、いま為すべきことをじぶんのなかで反芻する手がかりにすぎないのである。呼びかけ人もまた、代表や委員長といったリーダーであろうとはかんがえもしない。
 有力な政党政治家が控え室には激励に来ても、演壇への登壇はスペインの広場と同様にお断りしている。政党色をだしては広がりがもてない。党派性につながれば、官僚機構を創出することになり、やがて運動自体が生命力を失う。
 これらはすべて、2011年以降、中東、北アフリカ、ヨーロッパ、アメリカで起きている社会現象、まったく新しい形態の動きと重なり、また結びあっている。

120716さようなら原発1 

  2012年7月16日、代々木公園での17万人集会では、呼びかけ人のひとりで身体が万全ではない90歳の瀬戸内寂聴さんが炎天下、演壇に立った。おおくの参加者は巨大な会場のためにその姿を確認することはできなくても、脱原発を訴えるその言葉は、会場の聞く者のこころにふかく浸透し、脱原発の意志の新たな共有をよびおこした。こうした生命をもつ言葉が参加者の動きとともに広がり、ネットワークを築いていくとき、「パレードの思想」もまた生命を育んでいく。
 パレードはまだ、スタートしたばかりであり、脱原発から真の民主主義の実現に向けて生成をはじめたにすぎない。だが、2014年3月11日の大きな節目にむけて、なにかを「押し出し」はじめているのはたしかだろう。(つづく)


写真上=ヒトラーユーゲント 1937年5月1日、German Federal Archives Attribution-Share Alike 3.0 Germany
写真下=さようなら原発会場、2012年7月16日
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