『橋の上の「殺意」 畠山鈴香はどう裁かれたか』

まえがき

 2006(平成18)年4月、まだ寒が残っている秋田県北部の山間(やまあい)の町で、ほぼ1ヵ月のあいだに、一軒置いた隣同士、小学生の女の子と男の子がたてつづけに消息を絶ち、遺体となって発見された。
 残雪に囲まれたちいさな町は、凍りつくような恐怖に襲われた。子どもたちが急に泣きだしたり、眠れなかったり、トイレにいくのを怖がったり、パニック状態が続いた。 

 九歳の少女は川の中洲で、小学校にはいったばかりの少年は川の土手で、とそれぞれすこし離れてはいたが、遺体が発見された場所は、二体とも山峡を貫いて流れる清流にかかわっている。 
 事件のあった藤里町は、わたしの生まれ育った弘前市(青森県)から、釣瓶落峠(つるべおとしとうげ)を越えた隣町にあたるのだが、それまではまったく耳にしたことのない地域だった。地図をひろげてみると、県境にまたがる世界遺産・白神山地の広大なブナ原生林のむこう側、川に囲まれたちいさな世界である。眼を閉じると、その小宇宙の川岸に倒れている、ふたつのちいさな遺体を俯瞰できた。

橋の上の「殺意」 この町をはじめて訪れたのは、事件から三ヵ月ほどたってからだった。クルマで走りまわっていて、わたしはいつも、初夏の陽を受けて光っている、川面にとり囲まれているような閉塞感を感じていた。 
 「朝日ケ丘団地」。藤琴(ふじこと)川の河岸段丘に沿った、かぼそい町並みからすこし離れた一画に、都会風の瀟洒な住宅が並んでいる。12、3年前に畑地を造成して建設された、たった28戸の町営住宅である。
 それでも、過疎化がすすむ地域ではめずらしく、子どもたちの声がする地域である。 
 山の霊気が感じられるような山里の町営団地で、連続して起こった異様な事件によって、子どもたちばかりか、大人たちも怯えて暮らすようになった。地域全体がトラウマを抱え、そのケアのために精神科医たちが訪問するようになっていた。

 この町でわたしが最初に会ったのは、畠山鈴香を雇用していたパチンコ店の店長だった。まだ四〇代の店長は、彼女を解雇したのは無断で休むことがふえてきたからだ、といった。 
 畠山鈴香は事件のあったころ、からだの具合が悪くなって病院に通ったりしていたが、それまではよく働いていた。なにかの用事があって、店にひとり娘の彩香(あやか)ちゃんをつれてきたことがあったが、ごくふつうの親子の様子だった。鈴香はよく世話を焼いていた、という。
 それを聞いて、それまでテレビの映像で伝えられていた、自分勝手で興奮しやすい鈴香の表情が、ふと消えるような気がした。 

 高校時代の同級生たちとも会ったが、悪くいうひとはなかった。目立たない生徒だったのだ。同級生や同期生のなかでも、女性のほうがやや冷ややかなのは、リアリストだからだろうか。 

 そこから遠く離れた、都会のシングルマザーたちのあいだには、「畠山鈴香は、わたし」というひとがいないわけではない。精神科のクリニックを東京・麻布十番で開設している斎藤学さんは、彼のところに通ってきていた女性で、畠山鈴香事件にショックを受け、「在家出家」をしたひとがいた、という。 
 子どもを抱えて苦闘している、三〇代の女性たちが、人知れず戦(おのの)いていた恐怖を、鈴香が表現してしまったのかもしれない。

 しかし、なぜ、わが子ばかりか、二軒隣の小学1年生まで手にかけてしまったのか。 
 山里のたった28戸の住宅地。核家族がほとんどで、普段はさほどのつき合いはなかった。とりわけ主人公のシングルマザーは、まったく隣人たちとかかわりがなかった。得体の知れない女性の生活を窺(うかが)う視線が、事件のあとのテレビカメラによって、歪んだ映像に拡大されていった。 

 子どもばかりか、大人にたいしても、PTSD(心的外傷後ストレス障害)をあたえた犯罪だった。そのこともあってか、わたしが会ったある団地住民は、公然と死刑判決をもとめ、彼の子どもはテレビで鈴香の映像をみかけると、「死刑!」と叫ぶ、と語った。 
 これは哀れな「魔女」の裁判にかかわる記録である。

『橋の上の「殺意」 畠山鈴香はどう裁かれたか』講談社文庫、2013年8月
2009年6月平凡社より刊行されたものを加筆訂正のうえ、文庫化された。
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