増子義久「宮沢賢治没後80年…イーハトーブの今」続き(寄稿)

10月6日付「宮沢賢治没後80年…イーハトーブの今」の続きになります。

 東北地方は古くから「中央」を支えるための食料基地や金銀の産出地としての位置づけを強いられてきた。水陸万頃(ばんけい)の地ともてはやされ、寒さに強いヒエやアワなどの穀物に代わって、稲作を強制された結果、飢饉の悲劇を生み出した。豊穣の海と言われた三陸の海も結局は中央の欲望を満たすためのものでしかなかった。

 中央に電力を供給し続けてきた原発がなぜ、東北の地に立地されなければならなかったのか。その原発がメルトダウン(炉心溶融)したという事実はまさにこれまでの中央一辺倒の価値観や理念が一瞬のうちに瓦解したということである。

増子義久『賢治の時代』 賢治は2万人以上の死者を出した明治29年の「明治三陸地震津波」の約2ヶ月半後に岩手・花巻の地に生まれた。そして、そのわずか4日後には東北地方最大規模の「陸羽地震」が発生。さらに、37歳の短い人生を閉じたのは昭和8年の「昭和三陸地震津波」の約半年後のことだった。また、25歳の時には関東大震災の報に接している。
 花巻市内の中心街に浄土宗の寺があり、その山門前に10数基の飢餓供養碑と念仏碑がひっそりと立ち並んでいる。東北北部を襲った宝暦と天明の大飢饉で餓死したり、病死した人は16万人を下らないと言われる。石碑の由来を説明する板書にはこう書かれている。

 「境内には看護をする『救(たす)け小屋』が設けられていた。人々は野山にある草花ことごとく食べ尽くし、犬、猫、鼠にさえ値が付けられ食した」。また、『東北地方古今凶饉誌』(昭和11年刊)という本には「老婆の屍体が600文で売買され、鮎梁(あゆやな)には2歳、3歳の幼児の死体が1日に20人も流れ落ちた」と記述されている。

 このように賢治の一生は地震や津波などの自然災害、さらには冷害や凶作などの飢餓地獄に翻弄された人生だった。賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」は実はこうした過酷な風土が産み落とした<ドリームランド>だったのである。
 賢治はきっと4次元宇宙の遠い彼方から、「イ-ハト-ブ」のその後の変わり果てた姿にこころを痛めていたに違いない。そのことを知らせるためにわざわざ、わたしの夢枕に立ったのではなかったのか―。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ


増子義久=元朝日新聞記者で、現在は岩手県花巻市議会議員。おもな著書に『賢治の時代』(岩波書店、同時代ライブラリー)、『東京湾の死んだ日』(水曜社)などがある。
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