オウム事件と原発事故がしめす教養の必要性②

10月2日付「オウム事件と原発事故がしめす教養の必要性」の続きになります

 松本サリン事件で妻が意識不明の重体となり、警察とメディアから犯人扱いを受けた河野義行さんは、トレランス(寛容)に満ちた姿勢を表明している。
 「事件は、必ず風化するものだ。教団、メディア、警察に対し、誰かを恨む気持ちはない。報道姿勢や被害者支援の在り方、住民票不受理といった行政の過剰な教団バッシングなど、事件で得た教訓を生かしてほしい。教団は観察処分となって11 年が経過したが、果たして今でも無差別大量殺人を起こす危険性があるのか。そろそろ普通の生活に戻してあげたいとすら思う」(『読売新聞』2011 年11 月22 日)
 
 14 年間にもおよぶ寝たきりの生活をへて、妻は3年前に亡くなったという。それでもオウム真理教を受け継いだ宗教団体の人々にたいして、「普通の生活に戻してあげたい」との思いを抱くのはなかなか大変なことである。
 この記事の終わりが、また素晴らしい。
「妻が亡くなり、昨年、三回忌を終えた。これが私にとってオウム事件の区切りだ。だから、遠く離れた鹿児島に移住してきた。もちろん命日には妻を思うが、これからは自分のための人生を楽しみ、幸せになる」
 報復に取り憑かれたかのような死刑好きのマスコミとは、まったく異なる思想である。

 オウム事件で本当にすべきなのは、被害者の救済を考えることだ。どう補償していくのか、それを解決すべきであり、被害者の生活を安定させるよう方策を講じる必要がある。被害者の救済に動かず、死刑だけが一方的に進んでも被害者感情は報われない。

事件の謎に迫らないオウム裁判
 オウム事件の加害者のようなエリートが、なぜ事件を起こしたのか、理解できないという問題もある。その要因の一つに教育の欠陥がある。現在の学校教育では、命や生活、人間にたいするやさしさが教えられていない。だから知識だけでサリンを作り、頭だけで架空の敵をつくりだし、狭い世界に落ち込んでいってしまう。もっと幅の広い人間的な教養が必要だ。
 学力と教養は違う。人間を大事にしていくのが教養であり、それが足りなければ学力があっても人は救われない。
 
 エリートの暴走は、これまでにも起こってきた。浅間山荘に集まった連合赤軍の若者たちも、銃によって革命を成し遂げる「唯銃主義」を唱えた。その空想的な思想を信じて行動した。
 この事件が起こった1972 年からオウム真理教の事件まで23 年。再び若者たちが武装して、国家を転覆させようと考えたことになる。どちらの事件も社会に対する不満が源泉となっているが、オウム真理教事件の背景には社会のいきすぎた物質主義がある。精神的なつながりを求めて宗教教団に入り、秘密集団ゆえに歯止めなく殺人やテロルに暴走してしまった。
 
 社会を暴力的に変えるのではなく、もっと違った形で変えていく道筋をしめすことが、こういう犯罪を防ぐことにつながっていく。そのためにもこの裁判は事件の真相に迫る必要があった。死刑執行を認めさせるためのセレモニーと化し、事件発生の謎に迫らないのは無責任すぎる。
 死刑囚の再審請求はつづいている。死刑反対の声をあげていきたい。

「月刊 記録」より
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2013年11月11日(月) 23時54分 |

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