『橋の上の「殺意」』畠山鈴香との交信(結)

11月15日付『橋の上の「殺意」』の続きになります。
手紙の受取人畠山鈴香は、2006年秋田で起きた児童連続殺人事件の犯人で、『橋の上の「殺意」』はその事件に克明に迫った鎌田慧のルポルタージュ。今年8月に講談社文庫で再版され、そのあとがきに畠山鈴香受刑囚との手紙が掲載されている。今回が、手紙の最終回。


 今年(2013年)2月に四十歳の誕生日を迎えたとき、「一応、節目の時なのかとも思ったりして、四十歳という年令にふさわしい行動や考え方をしているのかと考えました。やはり残念ながら年令にふさわしいとはいえない、まだまだ未熟で子供だなと納得してしまいます。少しでも年令にふさわしく、人としてきれいな年の取り方ができればいいなと思います。できれば、かわいいばあちゃんと周りから言われたいですね」 
 こんなお手紙をいただくと、もしも裁判官が、世論や検事の主張に迎合して、死刑にしてしまったなら、このような女性を一人殺すところだった、ということがよく理解できるのです。 

 べつにあなたは、この手紙が引用されるとは思っていないでしょうし、わたしにもそのつもりはなかったのですが、最近、また自民党政権に復帰したら、たちまちにして、死刑執行が流行のようになったことを、わたしは憂(うれ)いているのです。
それで、辛うじて死刑判決を脱したあなたが、その後どのように暮らしているかを、伝えたいと思うようになったのです。

 小説好きのあなたの文章は明るく、正確で、読むのが楽しみです。3・11の日について書かれた以下の手紙は、「刑務所からの報告」ともいえる、貴重なものと思います。

Abukuma_River,_Fukushima_City,_Japan
 「鎌田さんは地震の時、日本にいなかったのですね。良かったというべきかどうか、知り合いや友人も多いことと思います。皆さん無事でしたか?
 こちらは震度6強で工場はギシギシとたてに横にゆれ、机の下に1時間ももぐり、正直死を覚悟しました。 
 地震前は晴れた日差しが入ってきていたのに、机の下から出ると外は雪が降りつもっていました。 
 地震後しばらくは食事もカロリーメイトとかかんづめとか日中もすくなかったですね。入浴は18日が10分だけで髪も洗えませんでした。
 仕事もなく、工場が可働したのは29日だけど、洗濯工場は多くの機械が壊れて4月25日まで可動しませんでした。 
 津波で家族や家を失った人もたくさんいると聞いているし、(家族が)避難所で生活しているので仮釈放が中止になったひともいました。今年はやはり運動会は無いと発表がありましたが、元々新しい施設で行事がすくないので、代わりにボールパスリレーを講堂で工場対抗でやることとなりました。 
 正式に放射能について施設側から説明も対応の説明もありません。ここにいるしかないのだからしょうがないのですけどね。ここにいるがために助かったという人もいる様です。
 自分がなぜ生きているのか。何ができるのか。ふとした時に考えてしまいます。ずっと骨髄バンクのドナーになりたかったのだけど、資料もなく、ここでは無理なのかとあきらめかけています」


 そうでしたか。刑務所にいたから、津波に巻き込まれなかったひともいる。人生なにがさいわいするかわからないものですね。 いびきが人並み以上にうるさい、というので、雑居房から独房に移されたそうですが、これもどちらがいいのでしょうか。あなたは集団生活にむかないのですから、いびきに救われた、ということでしょうね。 
暑くなります。どうかご自愛ください。
敬具  
2013年7月7日
  鎌田慧   
『橋の上の「殺意」』講談社文庫、2013年8月
写真=福島市を流れる阿武隈川、photo by Brian Adler,Public domain
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2013年12月22日(日) 19時33分 | | 編集


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