「ダモクレスの剣」の恐怖

 なぜ、電力会社を信用できないのか。 
 彼らは「事故などありえない」といいつづけるしかない宿命にあるからだ。というのも、原発にたいする反対論の中心は、原発はかならず事故を引き起こす、というものだから、それへの反論は「事故など絶対にありえない」という非科学的なものにならざるをえない。 
 しかし、神ならざる身の人間の行為に、ミスがないなどというのは、傲慢な暴論というしかない。原発の場合、一回かぎりのミスだけでも、回復不能の人類的被害を蒙(こうむ)るからである。

 賛成派も、反対派も、おなじ恐怖にとらわれている。「ダモクレスの剣」のような消費生活が、原発社会の恐怖である。 
 たとえば、やはり一瞬のミスが悲惨な大被害を呼び起こす旅客機の場合、「事故など絶対にありえない」と強弁する経営者はいない。利用者も、漠然とながらも事故の不安にとらわれないわけではない。それでも、事故が発生すれば、経営者の責任問題となる。 

 原発で事故が発生した場合、人間社会ができる補償の能力を超える、黙示的な世界が現出する。保険金などでどれだけのことができようか。それならいっそのこと、事故など考えないほうがいい。 
 かくして、「原発は怖くない」というひとびとの大量発生となる。避難訓練は、原発社会の現実要請である。しかし、事故がないのなら、なにもそんな訓練など必要ないはずだ。このように、原発はタテマエとホンネの矛盾と虚構の基盤のうえにある。 

 原発社会は、矛盾にみちた、不合理な社会である。被爆国の日本が、原爆の「平和利用」としての核開発に踏み込むにあたって、「民主、自主、公開」の三原則をつくった。
 いま、自民党ばかりか、民主党の議員にまで、「核武装論者」があらわれたのをみれば、民主、自主、公開の歯止めがいかに重要かがわかる。 
 が、それ以前から、原発にたいする民主、自主、公開など、すでに絵に画いた餅にすぎなかった。
『石をうがつ』講談社、2013年6月28日

(注)ダモクレスの剣……栄華の中にも危険が迫っていることの意。(古代ギリシャ神話で、シラクサの王ディオニシオスの廷臣ダモクレスが王位にあることの幸福を讃えると、、王は彼を天井から髪の毛1本で剣をつるした玉座に座らせ、王には常に危険があることを悟らせたというエピソードによる)
絵=Richard Westall「ダモクレスの剣」,没後100年以上経過しパブリックドメイン
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