市場原理主義がもたらすもの

 1980年10月16日、北炭夕張新鉱事故で事故死した93人のひとり、下請けの労働者の家では、女の子が産まれたばかりだった。 
 病院から帰ったばかりの若い母親に話を聞いた。あの子がもう26歳になった。取材に通っていただけのわたしでさえ、いま、さまざまな記憶が蘇っている。 

 多くのひとたちが、夕張を去った。そのひとたちにとって、この期間は長かったのか短かったのか。閉山後も、わたしはなんどか夕張に通った。あの「ふんどしのように」と形容されていたひょろ長い町並みを歩いていると、いつも名状しがたい悲痛な思いにとらわれていた。 
 町を歩いているときの悲哀は、事故で亡くなったひとたちへの想いばかりではない。事故を繰り返しては滅びていく、炭鉱の運命の拙さへの憤りもふくまれているようだ。
 
 
写真=池島のアパート,Photo by Jordy Theiller, クリエイティブ・コモンズ 表示 3.0 非移植ライセンス

 あの事故のあと、三井三池有明鉱(福岡県)、三菱南大夕張炭鉱と大事故がつづいた。わたしはそれぞれの取材にでかけ、それぞれの閉山を見た。その前後にも、三井砂川と三井芦別の閉山があった。そして、長崎市の郊外、外海町の海のむこうにある、やや奇怪な島の形をした「松島池島」鉱が閉山になった。坑内火災事故が引き金になったのだ。 
 北炭夕張新鉱の大事故は、限度以上のコスト削減は事故をまねく、との悲しい例証だった。しかし、それは63年の三井三池三川鉱の458人の大事故、その2年後、三井山野(237人)の事故によって、すでにあきらかなものだった。 

 坑内労働は危険労働だが、安全対策によって辛うじて成りたっている。存在そのものが危険な原発とのちがいは明らかだが、放射性物質をあつかう原発や加工工場でさえ、コストと安全性の折り合いは悪い。
 東海村JCOの悲惨さにそれがあらわれた。会社を存続させるためのコスト削減が、事故を起こして会社の破綻をまねくのは、パラドックス(逆説)である。[東海村JCO事故=1999年9月30日、JCO(住友金属鉱山子会社)の核燃料加工施設内で、ウラン溶液が臨界状態に達し核分裂連鎖反応がおき、その状態が約20時間持続した事故。被爆者667名、死者も数名出た]

 たしかに石炭は海外との価格差は三倍といわれ、競争はむずかしい。「松島池島」があったころまで、炭鉱は政府から年間40億円の補助金を受け、電力業界が石炭を引き取って存続していた。松島池島閉山のあとは、日本の炭鉱は太平洋炭鉱一社だけである。 
 石炭産業の崩壊は、60年代の「石炭から石油へのエネルギー政策転換」と「スクラップ・アンド・ビルド」によるものだったのは、記憶に生々しい。 
 北炭夕張新鉱の爆発事故は、通産省(現、経産省)が育成したビルド鉱が国際競争に敗れた瞬間だったともいえる。その後のビルド鉱の潰走(かいそう)は、時間の問題だった。 

 ポスト石油としての原発も斜陽の影が深い。大農育成の農政の失敗もあきらかである。
 単一、大規模の追求は時代に逆行する。さまざまな産業をよりあわせた国に安定性がある。石炭もその一環だった。 
 国内炭の生産をどれだけ未来にむすびつけるかが問われている。すべてを国際競争力だけで判断し、切り捨てる「市場原理主義」はこの国の将来をやせ細ったものにする。 
 北炭事故からはじまったこの間の反省とは、すべての産業を死に至るまで国際競争に投げ込み、淘汰(とうた)の激浪にさらすのではなく、残すべき産業はキチンと保護する、ということだ。農業はまさしくそうだ。
『いま、連帯をもとめて』大月書店2007年6月
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2013年11月22日(金) 08時59分 |

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