本音のコラム 2013/10/1


ニッポン無責任時代

 どんな事故を起こしても、だれも責任を取らない、というのでは社会正義に反する。事故防止に努めるのが、社長の責任ではないか。 

 神戸地裁は107人を死亡させたJR西日本の尼崎脱線事故で、歴代社長の責任を認めず、無罪判決を言い渡した。 
 この事故は、JR北海道の実態にあらわれているように、国鉄の分割・民営化によって株式会社になったJR各社が、もうけ確保のために、安全コスト削減競争に走った結果で、とりわけ、JR西日本での運転士への締めつけが厳しかった。 

 世間の常識とは異なり、これほど筆舌に尽くしがたい事故を起こした東電も、歴代社長は一切責任をとっていない。それで福島住民をはじめとする1万4716人が業務上過失致死、業務上過失傷害の疑いで福島地検に告訴・告発した。 
 ところが、福島地検は自分では判断せず、東京地検に丸投げし、東京地検は五輪騒ぎのどさくさまぎれに不起訴とした。これまた、著しく正義に反する。

 古くは1963年の三井炭鉱爆発事故(死者458人)、チッソの水俣病、これから被ばくの影響が現れそうな東電の福島原発事故。全部無罪なのか。 
 放射能汚染水さえコントロールもブロックもできないクセに、平然と原発の再稼働と輸出を謀る首相。
 日本無責任時代の責任はだれにあるのだろうか。
(東京新聞朝刊、10月1日)
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増子義久「宮沢賢治没後80年…イーハトーブの今」(寄稿)

 賢治が夢枕に立つことが最近とみに多くなったような気がする。今年が没後80年という節目に当たっているからかもしれないが、どうもそれだけではないようだ。東日本大震災以降、被災者に向けられる眼差しの風化やオリンピック誘致の方便としか思えない「福島(原発)の安全宣言」…。数日前も賢治の声に起こされた。

宮沢賢治 「おめさん、だいぶ疲れてるみでだな。オラさ、ついでおだれ」。今ではすっかり廃(すた)れてしまった土地の言葉で賢治はそうつぶやいた。トボトボと後をついて行くと、やがてまばゆいばかりの世界が行く手に広がった。厳(おごそ)かな口調で賢治が言った。

 「イーハトーヴとは一つの地名である。強て、その地点を求むるならば、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遥かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。実にこれは、著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリーランドとしての日本岩手県である」(『注文の多い料理店』の宣伝用広告チラシより)

 「大小クラウス」はアンデルセンの『小クラウスと大クラウス』、「少女アリス」はルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』だとすぐに察しがついたが、さて、「テパ-ンタ-ル砂漠」って?こんな時の手引書にしている『宮澤賢治語彙辞典』(原子朗編著)をめくってみると、インドの詩人タゴ-ルの詩篇がその出典らしい。タゴ-ル(1861年~1941年)は詩集「ギーターンジャリ」でアジア人として初めてのノ-ベル文学賞を受賞している。さすがは博覧強記(はくらんきょうき)な賢治である。縦横無尽に銀河宇宙の旅を楽しんでいる姿が目に浮かんでくる。

 次の瞬間、私の眼はそのあとに続く「イヴン王国」に釘付けになった。トルストイの民話集のひとつ『イワンのばかとそのふたりの兄弟』がその下敷きになっているらしいとは想像がついたが、「なぜ、そのばかの王国がイーハトーブと関係があるのか?」。背後から賢治がのぞき込むようにして、ニヤリと笑った。「おめさん、よぐそごさ気がついたなっす。オラ一番、そごが書ぎだがったのす」

 刹那(せつな)、山猫が下す判決文の一節が頭に浮かんだ。「しづかにしろ。申しわたしだ。このなかで、いちばんえらくなくて、ばかで、めちやくちやで、てんでなつてゐなくて、あたまのつぶれたやうなやつが、いちばんえらいのだ」(『どんぐりと山猫』)。

 「手にたこのある者は食卓につけ、そうでない者は残り物を食え」(働かざる者食うべからず)―― がイワンが住んでいる王国の掟(おきて)である。一方、賢治の童話『虔十公園林』は知的な障がいを持つ「虔十(けんじゅう)」が周囲に馬鹿にされながらもせっせと杉の苗を植え続ける物語である。この主人公の姿が権力欲や金銭欲、物欲とは関係のない純朴愚直なイワンと重なる。そうだ、あのことも聞いておかなくては…。

 賢治の詩「雨ニモマケズ」は震災後、復興のメッセ-ジとして、世界中を駆けめぐった。この中で賢治は直截に「行ッテ」と何度も繰り返し、受難者の元に直接赴くことを促した上で、こう結んでいる。「ミンナニデクノボ-トヨバレ/ホメラレモセズ/クニモサレズ/サウイフモノニワタシハナリタイ」

 「このデクノボ-って、賢治さん自身のことなんだべす」とわたしは尋ねた。照れ笑いを隠すようにして賢治は伏し目がちにつぶやいた。「おめさんがそう思うなら、それでいいんじゃねすか。何事も感じだままが一番なのす」。そう、賢治にとっての「イヴン王国」とはまさしく「デクノボー王国」のことだったことに思い至った。 (この項、続く)


増子義久=元朝日新聞記者で、現在は岩手県花巻市議会議員。おもな著書に『賢治の時代』(岩波書店、同時代ライブラリー)、『東京湾の死んだ日』(水曜社)などがある。本ブログの定期寄稿者のひとり。

増子義久 「宮沢賢治没後80年―余話?」(寄稿)

 賢治の「雨ニモマケズ」を読んでいると、この詩の「行ッテ」精神の実践者こそが当ブログの畏友、鎌田慧その人だと思い至る。彼が足跡を印した現場に虫ピンを刺していったら、その数が余りにも多すぎたために倒れてしまった。ノンフィクション作家の研究をしていたある学者がこんなことを書いていたのを思い出した。

 と、今度はその精神を地で行くジャ-ナリストがはるばる海の向こうからやって来た。イタリア人フリ-ランサ-のアレッシア・チャラントラさん(32)。
 東日本大震災の直後、石巻市の惨状を報告するルポがイタリアのマスコミに掲載され、これが権威のある賞を受賞した。ところが、その筆者は現場には一度も足を運んでいないことが明らかになった。
 アレッシアさんは自分もそういう目で見られていると思うと悔しかった。脱北者を中心に書いた北朝鮮ルポが優秀作品として認められ、その賞金を手に日本にやってきた。被災地に初めて足を踏み入れたのは震災から約4か月後。以来、今年の夏を含めて来訪は3回になる。

 「まるでポンペイの遺跡みたい」。一面瓦礫(がれき)と化した被災現場に立ったアレッシアさんは絶句した。被災者と一緒に避難所に寝泊まりし、仮設住宅に住む人たちを精力的に訪問した。
 イタリアでは2009年1月に発生したイタリア中部地震(ラクイラ地震)で300人以上が犠牲になり、現在も6万人以上が仮設住宅での避難生活を強いられている。日本文学を学んだアレッシアさんは夏目漱石の『こころ』を原文で読みこなすほどの日本通で、自身のHPにも「雨ニモマケズ」の原文が日本語で貼りつけてある。「だって、困っている人がいたら飛んで行けって、賢治さんも言っている」。案内した賢治詩碑の前で彼女はニッコリ微笑んだ。

 震災後、米国の首都・ワシントン大聖堂で開かれた「日本のための祈り」やロンドン・ウェストミンスタ-寺院での犠牲者追悼会などでこの詩が朗読された。「行ッテ」と繰り返し訴えかける文意から、被災者に寄り添うことの大切さをこの詩から読み取ったのかもしれない。
 花巻市と姉妹都市提携を結んでいる米国・ア-カンソ-州ホットスプリングス市に今夏、賢治のモニュメント像が建てられ、今月19日に現地で除幕式が行われる。像の説明版には「雨ニモマケズ」の原文と英訳文(Strong In The Rain)が記されている。

 そういえば、賢治が運行する“銀河鉄道”は四次元世界を自在に行き交う広大無辺の鉄路である。東日本大震災をきっかけに「賢治精神」には国境がないことにはたと心づいた。
 
 アレッシアさんが今夏、釜石市や大槌町(岩手県)、石巻市(宮城県)などの被災地を取材した模様が今月16日と23日の2回、NHKBS1(TOMORROW)で午後5時から放映される。


被災者から震災時の模様を聞くアレッシアさん(2011年7月25日、岩手県大槌町で) 


















被災者から震災時の模様を聞くアレッシアさん(2011年7月25日、岩手県大槌町で)
増子義久氏提供

増子義久「宮澤賢治没後80年―余話2」(寄稿)

 映画俳優の渡辺謙さんは東日本大震災の直後、YouTubeの動画によるメッセ-ジ発信サイト「kizuna311」を立ち上げ、その第1回目に賢治の「雨ニモマケズ」を自ら朗読した。なぜ、この詩だったのか。最近の話題作「許されざる者」(李相日監督)に主演した渡辺さんを見て、そのナゾが少し解けたような気がした。第65回アカデミ-賞作品賞などを受賞した、クリント・イ-ストウッド監督・主演の同名の映画(1992年)のリメイク版で渡辺さんのほか、柄本明、佐藤浩市ら豪華キャストの息詰まるような迫真の演技が全編にみなぎっている。

 舞台は明治初期の蝦夷地(北海道)―。大勢の志士を殺害し「人斬り十兵衛」と恐れられた幕府の残党、釜田十兵衛(渡辺謙)は、いまはアイヌ女性との間にもうけた2人の子どもと一緒に人里離れた荒野で百姓として暮らしている。妻はすでになく、生活は貧しい。そこに昔の仲間(柄本明)が現れ、懸賞金目当ての殺しに誘う。痩せた耕地では実りも途絶えつつある。

 当時の蝦夷地は新参の開拓民や屯田兵(警備や開拓に当たった兵士集団)、それに追っ手を逃れた旧幕臣などが入り乱れ、混沌とした状態にあった。同化政策を進める政府と先住民・アイヌとの衝突も絶えなかったが、貧窮に耐えきれないシャモ(和人=日本人)に救いの手を差し伸べたのもアイヌだった。十兵衛もアイヌ女性と出会うことによって、刀を捨てる決心をした。アイヌは「戦(いくさ)を好まない」ということを教えられたのである。

images[2] そんなある日、体を売ることを余儀なくされた女たちに対し、2人の開拓民が暴力を振るい、体を切り刻むという事件が起きた。女たちはなけなしの金を出し合って殺し屋を募り、2人への復讐を誓った。ひもじさに耐える幼子たち、虐げられた女たちの誇り…。法の番人であるはずの警察署長(佐藤浩市)が十兵衛の仲間をなぶり殺すという事件が追い打ちをかけた。途中から殺しの仲間に加わったアイヌ青年(柳楽優弥)の存在がこの作品の底流に大きく影を落としている。

 アイヌ社会にかつて「カソマンテ」という独特の風習があった。「チセ(家)焼き」と呼ばれ、女性が死んだ後に家を焼き払う風習のことである。アイヌコタン(集落)で家が燃えているのを目撃した屯田兵が「火をつけたのは誰だ」と言って、アイヌたちにリンチを加える凄惨な場面が出てくる。この光景を目に焼き付けた十兵衛は真っ直ぐに下手人のいる場所へと向かう。

 「死して生きる」―。これがアイヌの死生観の根本にある。画面を見つめながら、私はかつてアイヌのフチ(おばあさん)が教えてくれた話を思い出した。「アイヌはあの世でも生きていくわけだから、住む家を火の神を通して送り届けるわけ。とくに女の場合は一人で家を建てることができないからね」。明治4年、この伝統的な風習は「無知蒙昧で野蛮だ」という理由で一方的に禁止された。

 虐げられた者たちに対する限りない憐憫(れんびん)と「許されざる者」に対するたぎるような憤怒(ふんぬ)。この二つの感情が十兵衛に再び刀を抜かせたのではなかったのか。「雨ニモマケズ」に流れる精神―「受難者に寄り添う共感の眼差し」を十兵衛は「許されざる者」たちへの挽歌として捧げたのかもしれない。そんな気がしたのだった。

 渡辺さんは明治初期の北海道を舞台にした映画「北の零年」(行定勲監督、2005年)にも主演している。そういえば、この時もアイヌの存在が通奏低音のように作品の底流に流れていた。イ-ストウッド監督のオリジナル版でも作品に深みを与えていたのはアメリカ先住民・インディアンの存在であったことを、ふと思い出した。

写真=増子義久氏提供

故郷の風景 カネにかえるな

 高校の同窓生に呼ばれて、久しぶりに故郷の青森に帰った。自然保護に取り組むグループの創立十周年を記念する集会である。 
 「わたしの岩木山」というテーマを与えられたのは、このグループが岩木山のスキー場開発に反対してきたからだ。

 山に対座し、眉をあげて内省するという又化は、日本だけのものではないが、いまでも「お山参詣」として登山の風習を遺す津軽では、それぞれに岩木山への想いがある。 
 わたしは弘前公園の本丸から眺める岩木山にもっとも馴染みがある。自宅が公園に近かったので、高校生のころなどは、毎日のようにここから山を眺めていた。西の空の一郭の佇立する山は、季節によって近くなったり遠くなったりした。

 太宰治がはじめて本丸から岩木山を眺望したとき、足許の水草に覆われた濠のひろがりを、万葉集にある「隠沼」といい、眼下の民家のつながりを、「夢の町」といった。 

 太宰が師と仰ぐ「私小説の神様」こと葛西善蔵は、酔っぱらって本丸にあがり、岩木山にむかって唾(つば)を吐きかけ、
 「あたりに山がひとつもないから、高くみえるだけだ、自惚れちゃいけないぜ」
と毒づいた、と葛西に師事していた石坂洋次郎が書いている。
 
弘前城公園から見る夕暮れの岩木山, photo by Soica2001, public domain

 講演が始まる前に、本丸にあがってみようと、追手門までいった。と、市の高札があって、本丸への入場は「大人300円」とある、公園の中には生活道路かあるのでおかねはとれない。だからといって、いちばん景色のいいところだけを有料にするというのは姑息というものである。わたしは手ひどく裏切られた気がして、棒立ちになっていた。 

 環境権や日照権や景観権があるように、眺望権というものもあるはずだ。これまで、市民がこころのふるさととしていた風景を、だれかが勝手に囲いをつくって出入りを禁じ、カネを要求するなどできないはずだ。 
 それは故郷を売る行為でもある。カネ、カネ、カネ。郷士の精神を形成してきた風景までカネにかえようとする貧しさが悲しい。
(朝日新聞・環境ルネサンス2004年10月31日)

キムチの味(沖縄、そして韓国のよろこび)

 国民学校一年生だった。61年前の8月15日。ラジオから天皇の声が流れていた。その情景を、よく覚えている。弘前市郊外の農村にいた。

 そのとき、南島沖縄の読谷村は米軍の野営キャンプ場にされていた。その三年後に生まれた知花昌一さんが五歳になった頃、村に巨大な傍受施設「象の檻(おり)」が建設された。米軍が上陸してきたとき、叔父の平次郎さんが撃ち殺された場所だった。 
 1987年、読谷村は沖縄国体の会場になった。知花さんは、会場に掲げられた「日の丸」を燃やして逮捕され、懲役1年(執行猶予3年)の刑を受けた。
 すぐそばのチビチリガマ(地下壕)は、村びとが「集団自決」させられた場所で、彼は要請を受けて案内人を買ってでている。 

 「象の檻」の敷地にされた知花さんの土地が、61年ぶりに返還されたのを知って、お祝いの電話をかけた。円形劇場のような軍事用諜報アンテナの下で、山羊をつぶし、三線(さんしん)を弾き、手を挙げカチャーシーを踊る。東シナ海が光っている。沖縄の歓びがみえるようだ。
 知花家の土地は「駐留軍用特別措置法」のもとで、軍用地として強制使用されてきた。
 彼は土地を相続した95年、政府を相手に、「契約更新」を拒否した。政府はこれ以上の強制使用をつづけられなくなった。ほかの地主の土地も返還される。
戦前のように、高台の住宅地にもどる日が近い。

 沖縄・読谷村で、知花昌一さんの土地が返ってきた報せを受けたとき、わたしは韓国の梅香里(メヒャンニ)でのマンセー(万歳)、マンセーの叫びを聞いたように思った。 
 じつは、梅香里にいったことはないのだが、記録映画『マリーンズ・ゴー・ホーム』(藤本幸久監督)でみた感動的なシーンだった。2006年8月、米軍射爆場が閉鎖されたことを祝うお祭りで、村びとたちが「マンセー、マンセー」と、いつまでも喜びの声を挙げていたのだった。
 この映画は、北海道別海町の矢臼別、韓国西海岸の梅香里での米軍の実射訓練にたいする抵抗闘争、沖縄・辺野古の米軍基地建設反対闘争を描いたものだが、梅香里ノン島への射爆訓練は、猛攻というほどに凄まじい。

 梅香里に住むチョン・マンギュさんは、二度も逮捕され、一回目は、1年近く投獄されていたという。それでも、基地公害にたいする2000人以上の住民訴訟がついに基地の閉鎖を実現させた。
 チョンさんは交流のため、妻と一緒に矢臼別にやってきて、キムチの作り方を教え、一緒に踊って帰国した。その味が、北海道に残されているようだ。
『いま、連帯をもとめて』大月書店、2007年6月

写真=沖縄戦・沖縄の子供たち public domain

増子義久「宮沢賢治没後80年―余話3」(寄稿)

初音ミク  「初音ミク」という“歌手”が全世界を席巻しているのだという。音声合成システムを利用したバ-チャル歌手のことで、「電子の歌姫」と呼ばれているらしいが「そんな歌手は知らない」と言ったら、若者からバカにされた。そのミクさんが今度は賢治とコラボレ-ションしたと聞いて、二度びっくりした。

 作曲家でシンセサイザ-奏者の富田勲さん(81)が作曲した「イ-ハト-ヴ交響曲」の中で二人は共演した。この曲は賢治作品の「注文の多い料理店」や「銀河鉄道の夜」などをモチ-フにした全7楽章の大作。昨年の東京での初演に続き、今年夏には賢治のふるさと・花巻でも披露された。「イ-ハト-ブ」という銀河宇宙を自在に飛翔する賢治の四次元世界をバックに歌い踊るバ-チャル歌手のミクさん…。この絶妙なコンビに思わずうなってしまった。

 冨田さんは公演に先立ち「実はこの作品の着想は昭和15年に映画化された『風の又三郎』がきっかけだった」と語った。コラボの妙と着想の時間軸の長さにまたびっくりした。「風の又三郎」は1931(昭和6)年直後に書かれた先駆形を下敷きにした作品で、没後1年の1934(昭和9)年に発表された。

 満州事変勃発(昭和6年)、「満州国」建国宣言(同7年)、日中全面戦争へ突入(同12年)…。賢治がこの作品の構想を練っていた前後、一方で日本は軍国主義への道を突き進みつつあった。そしてその後、昭和14年には劇団「東童」による築地小劇場での上演が実現し、太平洋戦争が始まる前年の翌15年に映画化(島耕二監督、日活)された。なぜ、この時期だったのか―。

 「どっどど どどうど どどうど どどう どっどど どどうど どどうど どどう 甘いリンゴも 吹き飛ばせ…」―。有名な挿入歌で知られる「風の又三郎」の中に「専売局」の役人が登場する場面がある。葉タバコのヤミ栽培を摘発にきた役人で、子どもたちの遊び場である清流をバシャバシャと汚して歩きまわる。みんなは意を決して異議申し立てをする。

 ♯「あんまり川を濁すなよ、いつでも先生(せんせ)、云ふでなぃか」。鼻の尖(とが)った人は、すぱすぱと、煙草(たばこ)を吸ふときのような口つきで云ひました。「この水呑(の)むのか、ここらでは」。「あんまり川をにごすなよ、いつでも先生云ふでなぃか」。「鼻の尖った人は、少し困ったやうにして、また云ひました」「川をあるいてわるいのか」♯

 映画化された昭和15年はちょうど私の生年に当たる。作品の舞台となった花巻市内の豊沢川は子ども時代の格好の遊び場だった。プ-ル代わりに泳ぎまわり、箱メガネを使って魚を追った。そこは子どもたちにとってはまさに神聖侵すべからざる「聖域」でもあった。そこに現れたのが「鼻の尖った」―異邦人だった。私はいまでもこの映画を時々、見ることがある。その度にこの場面に目が吸い寄せられる。そしてふと、こんな思いにとらわれる。

 賢治は侵してはならない領域を土足で踏みにじることの罪深さを「風の又三郎」とその仲間たちに語らせたのではなかったのか。この作品をベ-スにした映画はひょっとして、究極の「反戦映画」ではなかったのか。そして時空を超えたいま、富田さんは「満州国」建国の対極に位置する、賢治の理想郷―「イ-ハト-ブ」建国の夢をこの交響曲に託したのではなかったのか―と。

 宮沢賢治イ-ハト-ブ館で今月16日に開かれた、賢治没後80年の記念イベント「賢治の世界セミナ-」でジャズピアニストとしても知られる黒田京子さんの「コンサ-ト&朗読会」が催された。公募で集まった即製劇団の子どもたち約20人が「あんまり川を濁すなよ…」と舞台いっぱいに群読の声を響かせた。幼い頃に遊んだ川辺の光景がふ~っと目の前によみがえった。

 「イ-ハト-ヴ交響曲」は今年の第23回宮沢賢治賞を受賞、富田さんはその副賞百万円を花巻市に寄贈した。同市ではこの基金を利用して、今年度中に市内の宮沢賢治童話村に「風の又三郎」のモニュメントを建立し、交響曲の構成曲を時報的に流すことを計画している。 

著者=増子義久。鎌田慧の友人。元朝日新聞記者、花巻市議会議員。
主な著書
『賢治の時代』(岩波書店、同時代ライブラリー)1997年
『東京湾の死んだ日』 この中には漁師の声がいっぱい詰まっている。おまえには、ペンがあるだろう」。今はなき漁業組合長から託された二十数冊の手書きメモ。そこに記されていたのは……。静かな寒村に突然現れたマンモス企業、〈化け物〉と呼ばれた巨大タンカーの正体、高騰する土地に群がるブローカーと権力者、漁民を狂わせた補償金ブーム、小さな喫茶店にまで飛び交う札束――歴史の闇に眠っていた克明な記録をもとに、衝撃の東京湾開発史が暴かれる。 鎌田慧氏推薦!! 山本周五郎の海はこうして略奪された。

絵=初音ミク、増子氏提供

「種を蒔く人」、雪の秋田から

種まく人 1850  新幹線秋田駅から20分ほど。土崎港の商業施設での「さようなら原発集会」に出かけたのは、「種蒔く人」に関心があったからだ。 

 翌朝、ホテルにラジオ局に勤めている年少の友人が迎えに来て、図書館前に建っている顕彰碑の前に立つことができた。横なぐりの雪が、雑誌をかたどった碑面にたたきつけていた。 
 「種蒔く人」第1号の表紙は、岩波文庫でよく知られているミレーの農夫の絵を模したもので、「自分は農夫のなかの農夫だ」「自分の綱領は労働である」というミレーの言葉を刻んでいる。 

 土崎出身のフランス文学者・小牧近江が、おなじ小学校出身の小説家である金子洋文や今野賢三などと発刊した、反戦と労働運動の雑誌「種蒔く人」は、日本のプロレタリア文学運動の一頁を飾っている。
 大杉栄や荒畑寒村などの「近代思想」とほぼおなじ、1910~20年代の文学運動だが、いわば東北のちいさな港町の出身者たちが、地元ではじめた文化運動として意昧が大きい。 

 土崎港の空漠たるヤードに積まれた、貨物船に載せるコンテナのうえに、雪が降りしきっていた。いよいよ北東北に本格的な冬がやってきた。 
 前夜の集会で、原発のない秋田県でも、雪にめげず「さようなら原発1000万人署名」運動に取り組んでほしい、と訴えたのは、脱原発運動はいまや全国民的運動になったからだ。
『怒りのいまを刻む』七つ森書館、2013年3月

画像=ジャン・フランソワ=ミレー「種まく人」1850年,ボストン美術館所蔵
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