教育雑感 「やってはいけないこと」

 (2006年)1月下旬の新聞記事で知ったことだが、日本学生野球協会は、高知県の私立M高校(記事は実名)にたいして科していた「対外試合禁止処分」を、それまで六ヶ月間だったのを、さらに一ヶ月延期することにしたという。  
 この高校では、野球部員の喫煙と部内暴力が表沙汰になって、「対外試合禁止」の処分ばかりか、「甲子園出場辞退」との悲運になっていた。可哀想とはいえ、それもルールだからしょうがない。  

 今回の一ヶ月追加処分は、昨年11月、同校が韓国へ修学旅行をしたときに、野球部員5人が、宿泊していた韓国のホテルの売店から、ブレスレットなどを万引きしていたことが発覚したからである。
 部員ばかりではなく、ほかの生徒4人も、おなじように万引きしていた、という。店員が気づいて、ほかの野球部員に注意し、商品はすべて回収した、というからまだよかった、といえる。 
 「すみやかに商品を返したから、情伏酌量の余地はある」として、一ヶ月だけの追加処分ですんだようだが、わたしは、もっと処分を厳しくしろ、とはいわないが、この行為のほうが「喫煙」や「部内暴力」事件以上に、道義的に許されない行為だと思う。 

 この万引き事件について、つぎのように考えることができる。 
① 万引きは、窃盗行為で、れっきとした犯罪行為である。 
② 日本よりも、まだ経済的に貧しい国のひとたちのものを盗むのは、日本での万引きよりもなお罪が深い。 
③ まして、韓国は、戦前の日本が植民地にした国であり、大量に人びとを殺し、財産を奪った国であって、いままたその子孫が泥棒をはたらくなど、なかなか許されがたいことである。 
④ 万引き行為にいたる心理のうちに、韓国民をあなどる差別意識はなかったかどうか。 

 新聞を読んで、わたしは、そのように考えたのだが、ことは「対外試合の禁止」などですむ問題ではないはずだ。 
 わたしがいいたいのは、そのひとりひとりの生徒を処分しろ、というのではない。まず、問いたいのは、その高校の教員たちは、修学旅行につれていくまえに、韓国と日本の関係について、どのような教育をしたのか、ということである。 

安重根義士記念館
 ソウル市の南山公園にある安重根義士記念館

 戦前の日本が犯した罪を詳しく教えたのかどうか。あるいは、その見学コースに、日本の罪状を残した施設が、どれだけはいっていたのか。 
 たとえば、伊藤博文を射殺した安重根の記念館や三・一解放運動の記念碑のあるポゴダ公園などへいったのかどうか。それは韓国人民がなぜ、日本の政治家や日本の軍隊に抵抗したのか、考えさせることでもある。
 それらの教育が、キチンとしてあったなら、韓国の民衆から、また昔のようにものを奪おうなどと思えないはずだ。 

 教育とは、おなじ過ちを繰り返さないためにある。ところが、小泉首相(当時)などは、靖国参拝に文句をつけるのは、韓国と中国くらいだ、と開き直り、悪いのはあっちだ、と責任を転嫁している。
 高校生の事件の背景に、最近の日本の排外主義が反映していなければいいのだが。

『やさしさの共和国』花伝社、2006年9月
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小学生の暴力 

 文部科学省の発表によれば、2004年度に、全国の公立小学校で発生した校内暴力は、前年度とくらべて、18パーセントもふえている。これは二年つづきの「過去最高」の数字だそうだ。
 この数字は、学校からあがってきた報告を教育委員会がまとめて、文科省に送られたものである。だから、「暴力」にたいする判断、見解の相違とか、申告しない、統計の取り方のちがい、あるいは、学校の体面とかがからむので、この数字をそのまま信じるわけにはいかないが、時代の流れの反映としては、ひとつの資料にはなりうる。 

運動会風景 小学生の暴力が、18パーセントもふえているのにたいして、中学生は6パーセント、高校生は4パーセントずつ減っている。だから、子どもの世界が全体として暴力的になっているわけではなさそうだ。 
 どのような暴力かといえば、
「ささいなことからけんかになり、同級生男子の額をひざけりした」(6年男子)
「悪口を言われたと勘違いし、小一男子の顔面を殴った」(3年男子)
「休み時間に遊んでいた際、友だちとの意見の食い違いから不機嫌になり校舎のガラスを割った」(6年男子)
「授業中、教師が着席するように指導したところ、怒って教室の窓ガラスを割った」(3年男子) (いずれも「日本経済新聞」2005年9月23日)と、このように、ささいなことにたいして、突発的で、短絡的に暴力をふるうことが多くなっている、という。 

 これまでも、最近の子どもは、忍耐力がたりない、自己表現力が不足している、対人関係能力が低い、などといわれてきたのだが、はたして、子どもの世界も殺伐としてきたのだろうか。 
 同紙によれば、京都市の私立小学校の校長は、「教師から『静かに』と注意されただけで、我慢できず手を出してしまう子どもがふえている」「子どもの忍耐力の低下に加え、学校に好感を持たない保護者が増えていることも原因のひとつ」と推測している、という。 

 学校と保護者が責任をおしつけあっている。子どもが学校に不信感をもつ家族の意見に影響されている、ということだが、しかし、それと暴力とは直接的にはむすびつかない。 
 器物破損などのほかにも、教員を蹴る、胸ぐらをつかむ、椅子をなげつけるなど、教員にたいする暴力も多く、前年にくらべて三割もふえ、336件あったという。 

 子どもの環境がいらだたしいものになっているとしたなら、その環境を変えなければならない。
 暴力をふるう子どもには、家庭内に暴力がある家が多いともいわれている。暴力の連鎖だが、子どもたちが穏やかな気持ちになるには、社会が穏やかな社会でないとなりえない。 
 子どものうちから競争にさらされるのがますます多くなっている。その分だけ子どもが「暴力的」になったように思われる。
『やさしさの共和国』花伝社、2006年9月

写真=藤崎啓撮影「運動会風景Ⅷ」

最近の新聞記事から「君が代不起立教員 前代未聞の再処分」(編集部)

 東京新聞・朝刊12月20日「こちら特報部」は、「都教委 異様な粘着気質」の見出しで、君が代問題で最高裁判決を無視して、再処分を強行した問題をとり上げた。以下は、その記事のリードの部分。

  都立校の式典で、君が代の起立斉唱を拒んだ教職員への処分について、最高裁が「減給は重すぎる」と処分を取り消した教員七人に対し、東京都教育委員会は17日、戒告処分を出した。最高裁判決の趣旨は処分乱発をいさめたもの。にもかかわらず、都教委は猪瀬知事の醜聞騒ぎにまぎれ、前代未聞の再処分を強行した。(出田阿生)

 2005年3月、卒業式での君が代斉唱時に起立しなかった教職員に減給という懲戒処分を下した都教委に対して、最高裁が「減給は重すぎる」と判断し、処分を取り消した。ところが、都教育庁教職員服務担当課の職員は「それより軽い戒告については何も言われていない」として、「戒告」処分を出したのである。
 東京新聞が「異様な粘着気質」と批判しているように、最高裁による処分取り消しがあったにもかかわらず、軽い処分なら最高裁から「言われていない」からという理由で遮二無二みずからの権力を行使しようとする。さらに、事件から8年過ぎても、あくまで職務命令に背いたという理由での処分を遂行する。
 東京新聞の記事は、「最高裁の苦言も無視 「まるでストーカー」」という小見出しをつけているが、この執念深さは確かに「異様な粘着気質」で「ストーカー」体質との批判が適切だろう。

 こうした教育システムは、当然生徒の方にも浸透していく。
 昨日の当ブログの記事でとり上げた秋田の畠山鈴香受刑囚の場合も、小学から高校まで一貫して執念深いいじめに遭っている。父親の酷い暴力、そして高校の卒業でのクラスメイトの寄せ書きにも心ない言葉が彼女に向けられている。こうした環境では、精神を病まない方が不自然なほどである。
 罪は罪として償わなければならないが、厳罰をもって対処するのではなく、犯罪の根源にあるのはむしろ都教委のような「異様な粘着気質」の支配欲であって、そうした精神構造をこそ断罪すべきである。学校にこびりついている「いじめ」は深刻化し、子どもの頃から生きることが楽しくない世界がしずかに広がっている。
 都教委のような権力が教員を縛りつけ、個人として尊重することを否定する構造こそ、明白にしつつ、わたしたちが克服していかなければならないものである。そのためにも、この東京新聞の記事のような言論メディアは価値をもつといえるだろう。

 現安倍政権は、国家安全保障戦略に「愛国心」を明記したが、「日の丸・君が代」に続いて、国民のこころまで縛りつける道具をつぎつぎに準備している。戦前のファシズムの再現を図ろうとする戦略である。それと東京都教委の「異様な粘着気質」は本質的に通じ合っている。
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